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明治31年春場所7日目 (朝日新聞/明治31.1.15)

○回向院大相撲
・昨十四日(七日目)は払暁小雨そぼ降りて興行の有無判然せざりしため、前日来客止めの景気なりしにも似ず不入の形なりしが、午前十一時頃一天拭うが如く晴れ渡りたれば来観者相応の賑わいなりし。
司天龍雲採は、の立ち後れを司天矢筈にて寄り切り司天の勝ち。
荒鷲鬼龍山は、突き合いの左差しにて寄るを寄り返し二本差しにては釣り出したり。
成瀬川小武蔵は、は二本差しにて寄り土俵際にて捻り出したり。
高千穂中ノ川は、は三段目なるもの右差しを巻き右に前袋を取って寄りつつ内掛にて巻き落さんとしも危うく見えしが、気息の切れし隙に寄り倒されしは是非なし。
嵐山嶽ノ越は、の左差しを泉川にかけしもの押しに土俵際まで寄られ、これを寄り返す途端の平押しに腰砕けの負。
常陸山境嶽は、の左差しをは上より絞めつけ右三ツを取って釣らんとすればは寄身にて右外掛けを試みたり、されどの踏張りに効かずして体の浮きしをアビセ掛けの勝は苦もなし。
淡路洋鉞りは、突き合いの突きにて鉞りは滑って土を握る。
両國北國は、右四ツにて互いに挑みて埓あかず、その間には寄られてすでに危うかりしが、逆手投げにて見事に勝を占めしはこの場所初めての秘術なり。
岩戸川虎勇は、突き合いの出鼻を捻っての勝は綺麗。
金山谷ノ川の突きの隙なきを避けんと後進するを突かれて踏み越し負は、に似気なき事なり。
岩木野小西川は、段に違いあるだけありての右差しを泉川に仕掛けんとする間に、二本を突込み苦なく釣り出しての勝は当然。
増田川は、右差しにて左前袋を取り、は左を巻き右差しにて寄りたるが、に寄返され土俵にてウッチャリしも効かずして潰れ、自身は捨て身の極りしと物言い付けしが採用なくして負となる。
玉風鬼鹿毛は、ヤッと立ちの右を伸ばす鼻を撓めるかと見る間に小手投げ極っては転がる。
外ノ海鶴ノ濱は、互いに突きの一点にてついに突き出しての勝は案外興なし。
大蛇潟若嶋は、立ち上りの右差しをは絞りて右を筈に当てしもは殺して攻め合い、はヂリヂリ寄られしが耐え防ぎ、ついに寄りて勝を占めしは場中の喝采なりし。
大纒不知火は、不知右を差せばは巻きて右に前袋を取りしが、不知に振り解かれ更に不知の右差しを片閂に絞れば不知は左にて巻き手を殺しつつ寄っての体ようよう浮き立ちし途端、下手投げを打ちし早業にも敵せず投げられて誰が目にもしるき負を取る。
當り矢荒岩は、立ち上りは張り手には屈せず進むより両差しに当てて防ぎしが、は寄り身になりて右を入れるや當りも右差して四ツとなりて押し行き、當り土俵際にて捨て身に行かん注文も此方はその手に乗らず左の差し手にて當りの腰を砕きて靠れ込むに、當りは注文違い体は潰れて負を取りしも、角力として愧る所なし。
源氏山大砲は、は左四ツの下手に入りは上手ミツを取り右はの差し手を防ぎて挑み合い、は投げを打てば体を引きて防ぐよりは更に右手を抜きて前袋を取り引寄せんとせしが、閂に絞られては勝手悪しとまたもや元の手に仕替えて投げを打ちたるが、は大事に防ぎあえて進まぬよりも踏み出す手なくしてついに水となり、のち取り疲れて引分はの分を待ちしによる。
小錦海山は、立ち上りは右を巻き左を差したまま動かず、は寄らば打たんと待てどもは寄れば損なりと大事にただ呼吸を計り居たるはあたかも木偶の如くにて水となり、のち取り疲れて引分は呼吸の切れしのみにて未だ額に汗を見ず、双方とも進まぬ角力にてありし。

○角觝雑俎
・目下興行中の回向院大相撲打揚げの翌日より二日間豊国会寄附相撲を興行し、そのまた翌日より二日間回向院維持のため両国有志の寄附相撲を打つ由。
朝汐は、去る九日(四日目)谷ノ音と立合いたる際、の廻しを確と取りたるを相手が強く腰を振りたるため右の親指の骨抜け目下治療中なるが、全癒までには三週間もかかるという。
常陸山は兜町株式仲買より浅黄地緞子へ丸に金糸にて株という字を縫いたる化粧廻しを貰いたりと。
豊田川という力士、一昨日牛込区神楽坂を通行の際イヨ大関と褒められて立腹し、大関とは冷やかす事であらうと俎板大の下駄をもって斎藤米吉、利根安太郎という区内の湯屋を殴打し血を見るに至り、その筋へ拘引せらる。

當り矢が荒岩相手に健闘。30歳を過ぎての入幕でしたが4枚目まで躍進して頑張っています。大砲に源氏山は引き分け。源氏山はこの場所5回目の引き分けですが、体格に恵まれており攻め込まれることは少ないものの勝ちに行けないというのは力の衰えでしょうか。すでに3敗してこれ以上負けたくない小錦も慎重策で引き分けました。休場中の朝汐は脱臼だったようです、痛そうですね(;・ω・)そして久しぶりに下位力士の狼藉が報道されました、本人たちは真面目でしょうが何となくユーモラスです。

明治31年春場所星取表
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【2010/07/26 10:35】 | 大相撲 | コメント(0) | page top↑
明治31年春場所6日目 (朝日新聞/明治31.1.15)

○回向院大相撲
・昨十三日(六日目)は御喪期も全く相済みし事とてにわかに貴顕紳士の来観多く、殊に二三総見物のありたれば午後には桟敷も客止めとなり上々の景気なりし。
大戸川淀川は、突き出して大戸の勝。
鶴ノ音両國は、の一本背負い外れての突きに敗を取る。
御舟潟熊ヶ嶽は、の泉川にかかって御舟土俵を割る。
鳴門龍最上山は、鳴門出鼻を右で差しすぐ下手投げを打つも最上よく耐えて廻り込み、下手の打返し見事に極りて最上の勝は案外なりし。
勝平利根川は幕下の好取組、立ち上り一本背負いに行くを利根モジッて引解き下手投げに行くをは残してハタキの極まりしが、土俵の狭く飛去るや踏越ありての負は遺憾なりし。
松ノ風谷ノ川は、右四ツに組みの上手投を腰に受け、廻り込んで掬い投げを試みしがは踏ん張りの気息を窺い上手投げを打ちしが、は辛くも土俵際にて残したれば、かえってに踏切りありて負は大角力。
常陸山玉風は劣らぬ破竹の勢いなるが、は右四ツになりは右差しにて寄るをは危うく踏み堪えて呼吸を休め居る隙を、下手にて釣し土俵の外へ持出さんずるよりは泳ぎて防ぎしも、は面倒なと云う風にてフイと離せばの腰砕けて落入りしは流石に幕下横綱の技倆なり。
高浪越ヶ嶽は、の左差しをは巻き右は互いに殺して揉合い、ついに寄切りての負は是非なし。
鬼ヶ谷北海は、突合い突き出しての勝は呆気なし。
天津風千年川は、病気で休み。
不知火當り矢は、不知右四ツとなりは右を当てて掬い投げを打ちしが不知残して攻め合い、寄ると見せて一寸体を引き透かして右手を敵の首に巻き落したる手柄は不知の得意なり。
小松山狭布里は、の左差しを小松は巻き右は殺し合いしが、ついには突込み襷に掛けて締め付けると見る間に右内掛けにて巻き倒し、の勝と団扇は上りしが同体に落ちしとの物言い付きて丸預り。
谷ノ音大見崎は、立上り例の足クセを仕掛けしもは右差しにて体を引き防ぎたれば、は二度まで仕損じて体の浮き居るを苦もなく振っての勝はの大不出来。
梅ノ谷源氏山は第一位の好取組、いづれも念入り仕切り立ち上りては右四ツに右後ろミツを取り十分の組み方には手なく右上手より巻き前袋を取って釣らんとの注文もは腰を振って取らせず、押合いのままにて水入後引分は双方とも骨の折れし割合には面白からざりし。
鳳凰逆鉾は、は昨年の場所に失敗せし強敵とてようよう固くなりて立ちも悪かりしが、の両筈に押し来るを土俵わずか三寸程にて受止めし途端、右の腕を取ってねぢればは二の突きを入れんとする矢先なれば力足らずして見事に捻られの勝はあまりに脆かりし。
大砲朝汐は、の指痛みにて休み。
・中入後、北國金山は、は二本差しの大櫓にて持ち出したり。
境嶽岩木野は、左四ツにて挑みは釣って団扇を取りしが、に踏越しありと物言いつきて預りとなり星は五分五分。

○相撲番付の大改良(1.6)
・大相撲番付面に登載せらるる幕内力士は近年すこぶるその数を増し選択疎略に失するの嫌いあり、その昔寛永の頃にはわずかに七八枚に留まり力量抜群なる者のみを選抜する事となり居りしが、明治の初年に至りその数増加して十一、二枚となり同じ十五六年には十四、五枚となり、同じ十九年よりは十七枚となり、そのうえ張出まで出来たれば幕内の欄内は頭数のみ多くなりその力量は昔の二段目十枚の者に劣れる者少なからず、これ実に斯道のため悲しむべきの現象にして畢竟カ士の数乏しきを告ぐるの致す所なるべけれど、要するに近時地方へ出稼ぎするもの幕内の力士なりという時は行く先々の売れ行き良きため自身も早く幕内に昇らん事を望み、協会に於ても容易に幕内に列せしむるの傾きありて、かく多数の幕内力士を生ずるには至りしなり、されどこの有様にて長く押し行かんにはその実際の力量を磨くもの自然減退するの不結果を生ずるに至らんも図られずとて今回の大相撲よりは厳重に力量を検査する事となり、力量劣等なるものは会釈なく幕下に下し、来る五月大番付には幕内東西十二枚ずつに減じ、なお進んで十枚に減ずるの方針を採る事に決したれば、カ士等はいづれも幕下に落つまじき事を祈り必死となりて腕を鍛え居る由なり。
○角砥雑俎
・角觝年寄清見潟又市は先頃門弟の勢力に年寄株を譲る契約整い、その準備中検査役の改選ありて清見潟が当選し直ちに就任したるより、勢力は大いに立腹して約定違変を責めけれど清見潟は当選せし以上は譲り難しと断りしかば勢力は角觝協会に対し清見潟の不都合を訴えしが、同会にては未だ清見潟より何等の届出なければ当協会にては採用し難しと書面を却下しけるより、勢力も致し方なく泣き寝入の姿なり。
・この場所より平年寄にて部屋持ち年寄に加入したるは音羽山(梅垣)待乳山(勝平)天津風玉ノ井(高浪)放駒立浪大嶽及び木村庄之助の八名なり。

この場所、平幕は14枚目まであります。当ブログが始まった明治13年夏場所は9枚目まで。明治初年は7枚目までで、三役を加えれば幕内は計10枚だったということになります。いつの間にかどんどん増えてきましたが、問題視する声もあるようです。当時は一門別に分かれて巡業、中には小相撲と言われるような本物の幕内力士不在の巡業もあったでしょうから、幕内力士の量産は興行上の事情が大きかったようです。本場所は年間2回しかなく、巡業の占める割合は時間的にも収入的にも大きかったと思われる時代です。また相続の問題、トラブルは古今つきもののようです(;・ω・)現役の十両力士や行司などが部屋持ち親方になるというのも当時は決して珍しくなかったようですが、現在ではありえません。さて土俵の方、好調鳳凰が逆鉾を下して大関の貫禄。同じく好調朝汐は指の負傷により休場してしまいました。

明治31年春場所星取表

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【2010/07/08 23:52】 | 大相撲 | コメント(0) | page top↑
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